よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

りっちゃん、さんぽ!

『水車小屋のネネ』がすばらしかった。

前の日記(大元消滅。保存もしていない)でも幾度か激しく津村さん愛を記してきたけれど、今回は格別響いた。最高傑作と思う。

ひととうまく関係が築けないとき(いつも)誰かから忌み嫌われるとき(しょっちゅう)働くってなんだろうと思うとき(しばしば)私は津村氏の小説を読み返す。全国各地にそんな読者は大勢いる。きちんと分析できるかたも。

これは個人の感想の書き散らかしだ。その点、ご容赦くださいますようお願い申し上げます。

初期作品において頻繁に設定された「ひとは、理不尽な暴力で痛めつけられる。再起不能なレベルに」というシチュエーションは、いまも、フィクション・現実の分なく気づきたくない数存在し、実際遭遇する。

その描きぶりがうますぎて読後口がきけなくなったりしていたわけだが、今回は「邪悪(相性や嫌悪にかかわらず、生まれながらに意地悪な人間がいる。災厄のようなものだ。と教えてくれたのは誰だったか。助けられたわ~)」サイドではなく、「親切」についての物語である。

「親切なひとは自分もやさしくしてもらえるよ」ではなく「与えられた親切を目前のひとにする」静かなくりかえしの40年史。

たちあうネネは、水車小屋に住む(飼っている、と水車の持ち主は考えない)鳥だ。そば粉を挽く石臼番のヨウム。私はしらなかったけれど、インコやオウムに近い、非常に賢い鳥で、長生きし、人間の言葉を覚え、対話できる。感情と「性格」をもつ。親しいひとの名を呼び、話しかたをまね、音楽鑑賞が趣味だ(好みもある。歌う)。

3歳児並みの知能と書物にはかかれており、たしかにぐずったり、すねたり、やきもちをやいたり、ほめられると得意になったりなど「ひとの子」のようでもあるが、絶妙なタイミングでの、発声、セリフ、行動、しぐさなど、むしろ「神」「長老」「仙人」「ユタ」を感じさせる存在だ(「生きる!」とか「しゅっぱつしんこー!」とか…津村作品には目をそむけたくなる現実の厳しさと、それを軽々と飛び越えるファンタジーの混在が特徴だけれど、まさに)

ネネ以外のキャラクター(人間)に特殊な才はない。杉子さんは絵を描く能力に秀でているが、ほかの方々は生涯通して功成り名遂げず、まじめにそばを打ち、未成年の姉妹に宿と職を供し、婦人部の衣装作りをかってでて、よその家の台風対策に力を貸し、飛び込んできた少年を介抱し勉強をみるなど、個人でできることをできるだけやって年を取り、ときがくれば去る。

要するに「ふつうのひと」なのだけれど、そういい切るにはばかられるほど心根がそろいもそろって美しい。

かなりの不遇にも力で抗うことなく、身を潜め、逃げ、自分の暮らしを新たに築くさきで「恵まれていた」「周囲の良心で生きのびられた」と自然に思う。その純粋なやさしい心を、いったいどこで? きれいな水の流れる町だから?(スピ)

いや、違う。親切にされた記憶が(意識にあってもなくても)残っているのだ。身内でない誰かに無条件で渡された「よきもの」が未来の行動に結びつくのだ。

10年ごとに章分けされた「親切の連鎖」のあたたかさは読まないと味わえないため、おすすめ! としかかけないが、現実社会やインターネットで目にする「ずるい」「得したい」「ついてない」「幸せそうなやつむかつく」「どうせ親の」「枕だろ」みたいな卑しい概念がゼロ。すごい。

律が成長し、理佐に感謝と尊敬の念とあわせて抱く「姉が鷹揚で勇気のあるひとだったから、私はここにいる」という思いを、出てくるひとたちみな、いつかどこかで誰かに対して感じる。親切が、思いやりが、想像力が、他人の困難を回避・軽減させる。

おだやかで健やかで、ひとの幸と無事のため最善を尽くす。親族や知り合いなどちまちました枠を設けずに、手を貸す。若いひとの自立を祝福する。安全と成長を喜ぶ。名前のつく「成果」よりはるか尊い行為がここにある。私もその輪に入る人間となりたい。