よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

認知の相違

春樹の新作は読みましたか? 私は読み終えました。感想はかくかもしれないし、かかないかもしれない。

そんなタイミングでのブッククラブの課題本は『神の子どもたちはみな踊る』だった。阪神淡路大震災後に出た短篇集。我々はいつ本を買ってもいい。読んでもいい。買わなくても読まなくてもいい。

ひとつ前の『カンガルー日和』回が非常に楽しくて(いまはもうない恵比寿のウェンディーズやモスで、友人を待ちながらページをめくった遠い初夏…)本選びとMCにはホストのセンスと流れを読む力がばっちり反映されるのをひときわ感じた私。かさねて時の運も(当日の構成員や天候で風向きは簡単に変わるため)。

カラオケの選曲と同様、愛の量やかっこつけ(盛れるか否や)に偏ってはダメ。式次第を固めすぎても裏目に出る。

ノルウェイの日は「そろそろかな~って」という驚きの理由でそれが挙げられ、おそらくすべてのシーズンであいつが選ばれるのを遅ればせながら理解し(10名足らずの参加者で「一番好きな作品」が4人ってんだから。前期でももちろん選ばれた)めちゃくちゃ売れたのは承知していたが…いやはや…(自分は何度読んでも「なるほど」どまりなので。とはいえ少数でも「どうにもぴんとこない」ひとだって必ずいて、なにかしら「感じさせる」小説であることに疑いはない)となかなかに考えたものだが、

比べて『カンガルー日和』はふわっと消えていく風のごとし。100%の女の子。18歳にもどりたいか。「イパネマの娘」のかかる書店内で軽口をたたき、ビフォアサンライズや500日のサマーの話題で盛り上がる、いい意味で「雰囲気のみ」の心地よい時間をすごしたしだい。

その日は、男性陣の過去には高確率で「遠くからみていただけの女の子」が存在し、高確率で「色が白くて髪が長くてさらさら」だったことも判明。紋切型といい放つのは簡単だけれど「限定」の輝き(白い肌もつやつやの髪も40すぎれば)に奪われる心を一概に責められないなとも思う。いっちゃえば花見だもんな。足が速くてしゅっとしていたサッカー部男子も30年後は鈍足と化し、会社の若い子から陰口をたたかれてるかもしれないわけで。

ときを経て、なお「とくに18歳に戻りたくはない」意見が大半だった(事実)滋味のほうが深くないだろうか。深いよ。着目すべきはそっちよ。

で。このたびの「神の子」に至ると。

どの小説を好きか問われ、ずっと「タイランド」だったけれども「(いまは)蜂蜜パイ!」ときっぱり回答する私(同意見複数)。近年は現実がハードモードすぎて、初読時「ハアお幸せに」と感じたそれが「ときには希望100%のやつも!」に変わってしまったのだ。春樹、ドアをどんどん叩かれたり砂嵐に声が消されたり電話が通じなかったり嵐の音だけが響いたりして不穏に終わりすぎだから。

「なによりも目の前にいる女ふたりを護らなければ」とかいう「決意」の方向がじゃっかんきついけれど(工藤静香が結婚発表直後のディナーショーにて「らいおんハート」を絶好調で歌ったエピソードが好例)まれに健全っぽく気合入った男が主役を張っても罰は当たるまい。

いつだって私は小夜子に好意を持つしね。迷う心。学問への関心。繊細さ。精一杯の思いやり。責任感。遠回り。後悔。娘を思う気持ち。けっこうじゃん。真摯じゃん。なのに。なのに。

「小夜子ビッチ疑惑」「流されてるだけなのでは」とかいう男性がちらほらいて気が遠くなった。おまけに「直子(ノルウェイの)はかわいいんだけどね」「村上作品で誰より出会ってみたいのは、直子かも」なんて意見まで出てくる始末。なぜどうして、昭和も令和もみなさん直子に夢をみるのか乗せるのか。

わかりあえないってことだけをわかりあうのか、読書も生活も。