よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

あの子この娘が大きくなって…

ウェス・アンダーソンの『アステロイド・シティがとてもよかった。

ウェスの映画はどこを切り取っても、こりゃウェスだ! とわかるガッチガチのおしゃれさで名をはせており、その唯一無二ぶりに誘蛾灯のごとくひとは引き寄せられるわけだけれど、作品ごとに合う合わないがけっこうわかれると思う。

私は『ダージリン急行』がとりわけ好きで、歴代いやなものはないが、ダージリンくらいの気持ちにさせてくれるものには以来出会えず。完成度や評判と趣味が比例しないことこそ個性、あるいは、老化による感性の摩耗、などと自身を納得させてきたのだけれど、このたびは肩を並べるほどハマってうれしかった。

ツイッターで「ダージリン急行とこれが心の一位を争う!」とかいう誰かさんの感想をみつけ、合点。チーム・スーツケース映画偏愛だ。スーツケースやばかったよね~。ウェス組、撤収後は小物どうしてんだろ。着払いでいただきたいんですけど!

さて。彼の映画には「並外れて優れた子どもの孤独」がよく描かれる。こまっしゃくれた子役ではなく、中途半端なナントカ王なんてのとは桁違いの。

今作でも「天才児合戦 in U.S.A.」みたいな大会(語彙…)がさびれた砂漠の町で行われる。ちょう頭のいい子どもがちょう頭のいい子どもと出会い(ひまつぶしのゲームがあれ)あくまでクールに、凡庸なおとなにゃ到底作れない発明品を発表しあい、大統領令によって強固に始まった「隔離」「隠ぺい」「人権(人命)無視」から人々を救う。頭がよすぎて幾分変わってはいるが、偏屈まではいかない子どもたち。これまではもっとほんと~に癖が強い子が出てきてたけれども。

ってもそれは「劇中劇」。お芝居。配役なの。

入れ子構造はウェスの得意技で、「雑誌」だったこともあるくらいだから「劇」なんて吞み込みやすいほうといえるがしかし)

定期的に原爆実験のきのこ雲がみえる、「強い国アメリカ」的には「護るに値しない」砂漠の僻地唯一の観光名物「隕石」が落ちた記念日にひとが集まるなかめっちゃキュートな(エブエブでも射抜かれたアナログの瞳が動く「目」力!」)丸腰の異星人が「未知との遭遇」スタイルであらわれて…さあどうするどうなる?? みたいなお話である(劇中劇が)。

劇のストーリーのみならず、舞台裏も、芝居をつくる脚本家のドキュメント(のテレビ放送、というてい)も、割合まっすぐ情にくる。めっちゃ高価で精巧~なデザインのカードを立て続けに切りたおして、え? え? 圧倒~みたいなこれまでと比べてどこかウェスっぽくなく、好悪のわかれるポイントかもしれない。叙情派の(笑)私の琴線にふれた所以も、おそらく。

「舞台裏」パートの、オーギーと亡き妻(役)とのバルコニー越しのやりとりにはぐっときた。16歳の娘と11歳の息子を残してこの世を去らなければならなかった友人が「できれば、いつか夫には新しいパートナーを得てほしい。悲しむ顔ばかり長い間みるのはいや」といっていたのを思い出して。

「劇中劇」でのミッジとオーギーとのモーテルの窓越しの対話ももちろん響いた。マリリンもこんなふうに、美しさと自分への期待の重さと生きづらさと仕事への愛情と誇りと透き通るようなセクシーさをときに持て余し、憂鬱な表情をみせただろう。元ネタ丸出しのたたずまいと、母として悩みつつも寸暇を惜しんで演技の練習に励み、バスタブに横たわる「世界がイメージする年齢相応のスカヨハ」の姿(二重三重の「名俳優」ぶり)。

いわゆる「家族万歳」をウェスは信じていないので、今作でも「喪失→再生」を安く謳ったりせず、やむなく密着暮らしをする羽目になった赤の他人(あるいは異星人)が、偏りはあっても基本みな善人で、お互いなんとなく助け合い、不器用なまま解散するさまが(舞台でも、舞台裏でも、脚本制作現場でも)バチバチにキマッたおしゃれ画で届けられる。

ママ(愛娘)の埋葬、宇宙人フェス、やる気ない子どもの歌声でスタートする謎ダンス、うっかりこの世をよきものと信じてしまうじゃないの、ウェス!