よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

ここも港区

4/14(日)

芥川賞候補作家にして愛聴するポッドキャストの語り手(超絶かわいい子犬「ちくわ」の飼い主)岸政彦先生が「東京でいちばん好きな場所」という「竹芝埠頭」へいってきた。同じく「20分休み」リスナーTさんの発案で。ナイスアイディア。

いったん話は飛ぶが、先日、人間関係で少々悩んでいた折(深く悩むことも多々あるがこのときはふわっとレベル)私のごく親しいひとたちは粘着性が薄くてありがたいワ~と感じいったのだ。これまたよくきくポッドキャスト(略称あるのかしら文字数…)の話し手ワッコさんが友人との距離のとりかたで疲れ「雨宮まみさんは<いまから死ぬ、といったら何時でもかけつけてくれるのが親友>とかいていたけれど、私にはその発想が無理」と話すのをきき、しみじみ同意したのがきっかけと思う。

若いころ、泣きながら電話をかけてくる(お題はほぼ恋愛のこじれ)友人がいた。好きだし幸せを祈っていたので真摯に応答をと努めるも、わりと早めに力尽きた。そんな自分を責めつつ、結局ひとは他人の話をそこまで深くきかないし、提案が正しくても効を奏すると限らないのもわかっていた。そして、そういうタイプとはいずれ疎遠になった。

てな具合で私には友だちが非常に少ないのだけれども、「減り続けてゼロ」は悲しいがガンガン増やしたいともあまり思わない。気の合いそうなひとと、え、え、あれも?? つってぐっと仲良しになるときの高揚感は大歓迎だけど(懐かしくまぶしく遠い「あの感じ」)「浸食」のニュアンスは一切不要。

(蛇足ですが、感極まって泣いちゃうとかいますぐしらせたくてライン、などは全く別の話よ。そっちは喜んで~)

前書きが長くなったのは、竹芝埠頭に出かけたおしゃべりの友Tさんがまさに(私からすると)「一緒にいて楽しく、尊敬でき、可能な限り長く交流し続けたいけれど、維持するにあたって生活をなげうったりしないし相手にそれを望まないひと」だからで。

ワッコさんのくだりと重なる時分に読んだ、津村記久子さんの『サラと気難しい人間たち』において、ある種のひとたちがAIではなく人間を相談相手に据え、どんな内容にも返答を要求し、気がそれたら糾弾できる関係を希望する。そのターゲットはもちろん立ち直れないほど疲弊する…といった描写があり、重い気分に拍車がかかったりもし。

日常でもみかけるその類のひと。津村さんはさすが巧みな説明をされていて「減る」人間にこそ時間を割かせたいのだと。ロボットなら飽かず耳を傾けてくれ最適解をだすとわかっていても、それでは「足らない」。相談の回答より「相手がなにかを捧げる手ごたえ」がほしい。もっといえば「自分の用事で削られるさまをみたい」と。

おそろしい。私は誰にもそうしたくない。そういう目的のため使われたくない。面倒くさいのと怖いのと余計なことに翻弄されたくないのと…理由はいくらでも挙げられる。とにかく全力でその手の欲望から距離をおきたい。

ええもちろん、異様な忌避感は自分がそこから逃げられない運命をしっているがゆえです。何度も経験したし、この先もおそらく巻き込まれるだろう。いやでも(自然な親切や気遣いから発生する親密な行動は言わずもがな別種)削られ傷つく姿をさらすことで誰かを喜ばせる事態に陥る予感は確信でもある。幸い真っ最中ではございませんが。

とかいいつつ一切ふりきって180度転換し、めちゃくちゃ明るいほうを目指せる精神の持ち主でもない私は、この場所を東京いちお気に入りとおっしゃる岸先生の悲しみベースのマインドに共感し「みつける才能」に感服しながら、水面のきらきら、行き交う大小の船、青空を突っ切る飛行機と舞うカモメなどに歓声をあげ、友だちとカレーを食べて存分におしゃべりをし、山手線であっさり帰宅できるひとときの幸運を寿ぐ。

ささやかなテーマの会話、搾取しない関係、なにもかもがつらくない時間を慈しむ。

ものすご~くせせこましいのだ。しんどくなく1日がすぎれば、それ以上望まない(余談ですが「すごい」と自分はふだん連発してしまうけれど、帯文では却下されるため要注意。すごいとかすばらしいは曖昧だからダメ。おっしゃるとおりだが、それらで済ませがちな人間の発言にだって心はこもってんだよな~)。幸せな週末だったとふりかえられる。