よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

大吉~(棒)

2024年は初日から大変なことが起きた。10年以上「もう終わりだ」と思い続け、なにかあるたび「とどめ…」とさらにどんよりしてきたけれども、いよいよ。言霊問題を持ち出されようが、もはや空元気(という名のポジティブシンキング、いいこと探し)で支えられる事態ではない。胸も痛むが明日は我が身。しってたけど。見捨てられて死ぬんだよ。税金も年金も払い続けてんのに。

1日は暗い情報の波状攻撃にやられ、身内の集まりのあと19時にはぐったりベッドで本を読み(主に「小説ユーミン」。やすらげるイイ塩梅だった。功成り名遂げた人物の一代記の朝ドラ感ときたら。まあそういうひとをヒロインに選んでつくられるわけだが)、2日は母(元日生まれ)のお祝いにウェスティンホテルの「龍天門」で中華をごちそうし(飲茶うま~)4日から出勤。

まじめか。まじめだ。まじめは美徳だが。あの火災から乗客乗員全員脱出なんて、市井のひとびとの日頃のなまけない心と行動の結晶としかいいようがない。一般人はよくやっている。問答無用でカスカスになるまで吸い取られ、寄付までしちゃう。その誠実さをもってして、なぜ選挙へいかないのか、陰謀論にハマるのか、など考えると不思議でならないけれど、そういう姿勢をかっこいいと信じる人間がいるのだ。世の中には「自分が到底素敵と思えないものをクールだと認識する層」が確実に存在する。しかも大量に。

みたいな哀しみから、思えば自分の「中二」的なものは始まったのではなかったか。

桃山商事の専務・森田氏がポッドキャスト(おもしろい)で「学校のイヤなところはいっぱいあった。女子のブルマとか水着はもちろんとんでもないんだけど、男子だから上半身裸ってノリも自分にはつらくて。騎馬戦とかで脱ぐのなんなんだろ」と話すのをきいて思い出した。

あれは一部のみる側にも厳しかった。「人気者の上半身裸」が「雄姿」として女子にキャーキャーいわれるさま。きもい。理解できない。ふんどしで冬の海に入るのも、崖の上から丸太を落として命がけで身体を使って運んでいくやつも、同じ匂いがした。なんだいったい、と心底思えど、世間では「日本の美」「伝統」「絶やすな」「漢」みたいな扱いで、学校では上半身裸の騎馬戦や和太鼓演奏に「かっこいい~」つって泣くクラスメイトまでいて。

「生きづらさ」なんて使い勝手のよい言葉がなかった時代、割り切れない気持ちを共有できる場も見当たらず不安になった。あのとき、セクシュアルマイノリティのひとたちはどれほどつらかったろう。居心地悪いどころではない。

乱暴だったな、と思う。明らかな暴力だった。生涯に傷を残す。流れが変わってきてほんとうによかった。

でも、やさしく、ボーダーレスに、すべてのひとに等しい人権を、というのはまったく実現されていない。

むしろ攻撃は四方八方から。黙っていても声を上げても、とことん痛めつけられ、誰も責任をとらず、燃えさかったあと残るのは見向きもされない焼け野原、な展開は激化・増加している。

ひとりの弱者(あるいは勇者)に群がって(桁が違う。何万もだ)大喜びでたたきのめす輩をみて「この、口汚くののしっている(論拠は稚拙)誰かがそのへんを野放しで生き、隣に住むかも、駅でうしろに並ぶかもしれないの、まじ怖え」とぞっとする。し続けている。新春から恰好の餌食をみつけ、屋内ではりきって増殖するSTども。

災害はやってくるし、人災は減らない。立ち向かう力も尽きそう。

年初早々、まともなひとはみな陰鬱なはずだ(元気いっぱいなかたがいらしたとて、当ブログは読まんだろうし)。おつかれさまです…なにするのもだるいよね…

そんななか、おみくじは「大吉」だった。変なひとの変なポスターを掲示していない神社に詣でてきたところ。大吉…! これるもんならきてみろっつう感じである。