よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

フライデーズでお茶しない?

8/11(金)エドワード・ヤン2本立て&名監督2名のトークショーが! てのをSNSでしり、やる気満々で座席をゲットした。最前列よ。

はるか昔、アラーキーの写真講座にてご本人から「あんた、一番前にこなきゃ!」といわれて以来、イベント的なものでは可能な限り前を陣取っているのだ。身長150cm台前半だし。

なにしろ濱口竜介監督と岨手由貴子監督の組み合わせである。「あのこは貴族」と「偶然と想像」は2021年のマイベスト、とともに、いまもちょっと体のどこかに「感じ」が残っているような映画。作ったひとをまとめて直近で拝めるなんつったら、それは(おふたりの対話も大変興味深い)。

とはいえ、じゃっかん悩んだのも事実。スターやアイドルではない。「なるべく近く」を望まんでも。六本木や日比谷に比べシャンテは古い映画館(好きだけど)、傾斜や椅子の作りで、前列は確実に首がやられる。ヴェーラやユーロスペースでも後方を選ぶ見下ろし嗜好の俺が。ヤンの長く暗い映画を無理な体勢で鑑賞するって。

ゆれた末、結局最前をポチったのは、以前「ホントのコイズミさん」に岨手監督がゲスト出演された折、内容もさることながら「話しかた」がめちゃくちゃ好みだったからだ(声質、スピード、間合い、一答の量)。あれをこの耳で、目で、そばでとらえたい欲が、どうにもおさえらず。

はたして、鑑賞に難はあれど(そりゃな)甲斐も特大だった。「百合子の緑」のようにご本人に意識があるかはしらないけれど、近距離の岨手監督はよくお召しの白で、可憐かつゆるぎないものを漂わせつつ「エドワード・ヤン監督は女性の解像度が非常に高い。やさしくおだやか、あるいは、こじれてわがまま、だけの女性は現実には存在しないから」「ひとのいやなところも不安定なところも撮るけれど、裁かない。その裁かなさがとてもいいなと」などの発言に「あのこは貴族」でも示された「どんな属性にもそれぞれの地獄が待つ」観がしみ込んでいた。

濱口監督もさすがのかっこよさで「最初は寝ちゃって」発言からの(イケてるひとのみに許される「1回目は寝ちゃったんですけど笑」しぐさ…)台湾で国立博物館レベルにおこなわれたエドワード・ヤン大回顧祭を「いまの日本には、いち監督をああしてとりあげる力がないので」とさらっと話すなど「担い手」感ばっちり。分析を知性とキャリアがいちいち支えていた。

作品内でフォンが突然みせる闇夜の側転を「あそこでぐっといっちゃうとかほんとに、うまい」つって両監督めっちゃ意気投合されるなど、そう! まさに!

眉目秀麗な女性が突如側転、したとたん偶然赤い閃光が。それをみて、送るだけのつもりの男に次の感情が生まれる。白い歯きらりや捨て犬にミルクみたいな、安~いどこかでみたやつじゃない、けど、実際はほとんどのひとが一生遭遇しないシーンではっとするのが人間で、そんな「場面」をいざというときもてるかもてないかが「もってるか否か」なのだ(いうまでもなく私は「もってない」ほうだけど)。

古今東西「エレベータのなかと外」を効果的に撮った映画は名作に決まっているが、本作もまじでそれが何度もでてきて「密室内のやりとり」も「乗ったときと降りたときの別世界」も「開いたと思ったら、え? あのひと??」みたいなのも全部盛りで、ことごとくキレキレ。秀逸なコメディでありつつヘビイでビターな、要するに「それぞれの地獄」モノの傑作さが「4K」でよみがえったかっこうだ。

あとシスターフッド! ね!

両監督ともその視点において優れた映画を何本も作っておられ、この場に招かれること、語るべき言葉を持つこと、そして、おそれながら私がふたりを贔屓するまでも包括して、むべなるかな、であった。

(余談だけれど、隣の女性ふたりが長丁場に備え、機内みたいに靴下とバレエシューズにかえて圧着レギンスを取り出しながら「やるねえ~」「大事なわけよ、こういうのが」と笑いあっていて素敵だった。ヤン、岨手、濱口、どのひとの映画に出てきてもおかしくないシーンじゃない? みたいな)