よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

映画の強さもひとの弱さも

一歩間違えれば死ぬ暑さだったさきの3連休、みなさまにおかれましてはいかがおすごしでしたでしょうか。

私はといえば、ウィンドウにうつる己の冴えなさにぞっとし「まずは姿勢(できることから)!」と強く決意するもあえなく塵。熱波に抗えず、猫背で表情筋の死んだホリデーに。

始まりがまず悪かった。

自分も「概念として」なら生きるとか死ぬとかについてそこそこ考えるけれど、事情も人柄もしらない誰かのつらい選択にそんな一家言ごちたいか、多くの人間よ。という薄暗い気持ちがどうにもひかず。

好き嫌いださいかわいいみたいなことをふとつぶやいちゃう気分はある程度わかっても、断罪、差別、誹謗中傷については。狂ったように投げつける情熱について加害側へうっすら思いをはせてはめちゃくちゃ沈んでしまう。

そもそも自分を脅かすものから1㎜でも遠く距離をおきたい私は、他人に平気で暴力をふるう人物は風向きが変われば速攻こっち、が目にみえるため要注意マークを忘れない。

という生来の感覚にあわせての、女性、貧乏、非正規。明らかな弱者チーム構成員ゆえひどい目には充分遭っており、たとえば外国籍とか性自認を理由に人権を脅かされるとか生命維持への不安を抱えているひとがまともに扱われない状態に、不愉快なだけでなく、わがことのように傷つく。

少し考えれば、ごく一部の偶然に偶然が重なってたまたま恵まれている人間以外「差別」は「敵」のはず。なのに、いきなりそっちの視線で元気よく絶え間なく弱いひとを叩ける「一般人」のメンタリティってなんなんだろう。根拠もだけど、その量にひたすらげんなりしてしまう。あのときも、あのときも。いまも。

で、とどめの酷暑よ。

果てそうになりながら、もともとない力をふりしぼり、灼熱の土曜日(いちおう連休一気温の低い予報が出ていたから…)意を決して! イメージフォーラムまでカサヴェテスの特集上映をみにいったわけだ。

「ラブ・ストリームス」

周知のごとく、カサヴェテスの映画はすばらしい。が、特異な威力で体内に重い液体を残しがち。みるにはそれなりの覚悟が必要である。

「こわれゆく女」でいつか帰り道足元がおぼつかなくなったため、暑さも考慮して今回はこれか「フェイシズ」を…(どちらも初見時「こわれゆく女」ほどはくらわなかった)くらいの気持ちで挑んだところ。

ま~よかったですよ。よかったんだ、これが。暗さ重さに構えすぎていたせいか、想定をこえて素直に静かにしみわたった。不思議なあたたかみとユーモアがあれこれを制し後味もなんだか。

(ペットが近くにいれば冷えた心も癒されるのではというおねえちゃんのおせっかい、意外に効くし。異国に越して恋人を作り創造的な仕事でもすれば心の病なんて一発っしょ、てえカウンセラーのひどさはアレだけども。「クリエイティブ」の雑さと暴力…)

登場する誰もが残らず幸福への道を歩んじゃいないけど、不幸とは違う。いや、自身の考える「不幸のかたち」が若いころと変わったのかもしれない。30年やらたてば。

「愛」も「美しさ」も「パートナーシップ」も、「孤独」に至ってはなにがどうしたって皆「孤独」なのだから(自覚していようがいまいが)自前、勝ちも負けも未来も過去もない。

前後に90年代カサヴェテスを続けてみたころのあれこれも思い出して、複合的に味わえた。

優れた(後世に名を残し、次世代をノックアウトする)監督の作品は、総じてあきれるくらい「誰にも似ていない」(=ほんとうの意味でのフォロワーはいない)。

カサヴェテスもジーナ・ローランズも、とにかく類をみないレベルに「顔がいい」しね。最初からやられたもの。若者たちが、こぞって華奢で整った顔をしておしゃれの似合う俳優を欲したあのころにおいても。

なにしろ、強い。強いものは強く深く美しい。