よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

私みたいなもんも

先日、テレビドラマ「すいか」放映20周年記念イベントのひとつ<岡室美奈子教授「アカデミックにすいかを語る」講演会>へいってきた。

暑い暑いなか(20年前の夏はこんなでは…)現場にたどりつくと、ときを超えてドラマを愛し続ける人々が。楽しげに看板脇で記念写真を撮り、展示物に感心し、ホール内の席もおよそ8分入り。いち視聴者ながら胸が熱くなる。高まる親近感。

ささやかでやさしいトーンなのに、ときに厳しく、ファンタジーもちょいと、きらきら尊いドラマは「妥協」や「忖度」、ジェットコースターやら純愛などの要素は皆無ながら、一瞬一瞬見逃せなかった。視聴者に与えるだけ与えつつ「答え」や「説明」はしない「考える」ひとのためのテレビドラマだったと思う。

で、ルックがこれだ。

かわいい。かわいいしかない。かわいいひとがかわいい服をきて、朝ごはんを食べたり、花火をしたり、新聞を回し読みしたりする。かわいいひとの友だちもまたかわいくて、職場のお金を3億円強奪して逃亡中。

かわいいひとたちはそれぞれ悩みと不安をかかえながらハピネス三茶で暮らし、なにかヒントを得たりドアをみつけたり…したかと思えば、3歩進んで2歩戻ったりでひと夏がすぎてゆく。

誰しもずっと同じ場所にはいられない。ゆかちゃんも絆ちゃんももとこさんもいま(20年後)ハピネス三茶(たぶん取り壊し…)の住民ではなかろう。だが、ここでの日々を決して忘れない。

なんかさあ~夏ってそういうもんだったよね~(突然歯の浮くセリフ)。

当日は、運営委員会の方々も本当にうれしそうに立ち働いておられて(客があれだけ感喜んだのだ、集めたほうは最高だったに違いない。人徳とか宣伝の妙もあろうけれど「200人入る講堂で14人だったらどうしよう」とかふたを開けるまでまじ心細かったと思う)あちこちから間髪おかず「古い友だち」のように声がけがされ、高揚と興奮を伝えられていた。

いい気。いい空間。待合にいるだけで楽しい(待合…)。Tさん、いつもながらツボ企画へのご招待をありがとう(あなたのフリートーク力の成長ときたら、目を疑うばかりよ)。

講義もたいへんわかりやすく「すいか」のここがイイ! だけでなく、日本のテレビドラマの変遷(「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」などは果たして「トレンディドラマ」だったのか、流行は「家族」「恋愛」「生死(このへんもう私はくわしく追っていないが、余命モノ、 そういや雨後の筍のごとしだった)」「刑事&医師、お仕事中心」と移りゆき、いまや配信、サブスク、倍速鑑賞と、さらに新たなフェーズへ)を丁寧に説明してくださったうえ、2003年いよいよ始まった「すいか」に言及、個人的には「クドカン仕事」(木更津!)をぶっ混んできたさすがの目の確かさにうならされつつ(あれこそ「ふつう」を讃えた秀逸なドラマだったもんな)、なにしろぐっときたのは、愛好者たちとともに「みる」名場面いくつかと「味わう」名台詞いくつか、だった。

梅干しの種の散らかる台所、20年後あなたは?(まさに)の取材、お母さんの入院生活、教授の旅立ち。

テレビの前でう~む&じ~んつってみていたときもよかったが、20年後「何者にもなってはいないけれど、とりあえず望むところに出かけられる身」を維持し、当時は同じ空の下「すいか」をみていた知らないみなさんと、2023年同じ屋根の下!「すいかだいすき!!」を共有できるなんて。

ドラマは「はい、ここ感動!」の押しつけを一切しないものだったけれど、実行委員のかたの講義後のインスタライブによれば「泣きそうになった」とあまりに多くのひとがアンケートにかいていたという、この会。

私も端的に「泣きそうになった」。ふつうに生きる難しさが、20年後のみえなさが、倍々にのしかかる2023年。それでも私たちは「すいか」を好きで、不安も不器用さもさみしさもちっぽけさも抱えながら、自分の責任(それは「自己責任」とは完全に異なる)で「どっちか」を選んで生きたいと思っている。自分の人生なんだから。