よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

私みたいなもんも

先日、テレビドラマ「すいか」放映20周年記念イベントのひとつ<岡室美奈子教授「アカデミックにすいかを語る」講演会>へいってきた。

暑い暑いなか(20年前の夏はこんなでは…)現場にたどりつくと、ときを超えてドラマを愛し続ける人々が。楽しげに看板脇で記念写真を撮り、展示物に感心し、ホール内の席もおよそ8分入り。いち視聴者ながら胸が熱くなる。高まる親近感。

ささやかでやさしいトーンなのに、ときに厳しく、ファンタジーもちょいと、きらきら尊いドラマは「妥協」や「忖度」、ジェットコースターやら純愛などの要素は皆無ながら、一瞬一瞬見逃せなかった。視聴者に与えるだけ与えつつ「答え」や「説明」はしない「考える」ひとのためのテレビドラマだったと思う。

で、ルックがこれだ。

かわいい。かわいいしかない。かわいいひとがかわいい服をきて、朝ごはんを食べたり、花火をしたり、新聞を回し読みしたりする。かわいいひとの友だちもまたかわいくて、職場のお金を3億円強奪して逃亡中。

かわいいひとたちはそれぞれ悩みと不安をかかえながらハピネス三茶で暮らし、なにかヒントを得たりドアをみつけたり…したかと思えば、3歩進んで2歩戻ったりでひと夏がすぎてゆく。

誰しもずっと同じ場所にはいられない。ゆかちゃんも絆ちゃんももとこさんもいま(20年後)ハピネス三茶(たぶん取り壊し…)の住民ではなかろう。だが、ここでの日々を決して忘れない。

なんかさあ~夏ってそういうもんだったよね~(突然歯の浮くセリフ)。

当日は、運営委員会の方々も本当にうれしそうに立ち働いておられて(客があれだけ感喜んだのだ、集めたほうは最高だったに違いない。人徳とか宣伝の妙もあろうけれど「200人入る講堂で14人だったらどうしよう」とかふたを開けるまでまじ心細かったと思う)あちこちから間髪おかず「古い友だち」のように声がけがされ、高揚と興奮を伝えられていた。

いい気。いい空間。待合にいるだけで楽しい(待合…)。Tさん、いつもながらツボ企画へのご招待をありがとう(あなたのフリートーク力の成長ときたら、目を疑うばかりよ)。

講義もたいへんわかりやすく「すいか」のここがイイ! だけでなく、日本のテレビドラマの変遷(「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」などは果たして「トレンディドラマ」だったのか、流行は「家族」「恋愛」「生死(このへんもう私はくわしく追っていないが、余命モノ、 そういや雨後の筍のごとしだった)」「刑事&医師、お仕事中心」と移りゆき、いまや配信、サブスク、倍速鑑賞と、さらに新たなフェーズへ)を丁寧に説明してくださったうえ、2003年いよいよ始まった「すいか」に言及、個人的には「クドカン仕事」(木更津!)をぶっ混んできたさすがの目の確かさにうならされつつ(あれこそ「ふつう」を讃えた秀逸なドラマだったもんな)、なにしろぐっときたのは、愛好者たちとともに「みる」名場面いくつかと「味わう」名台詞いくつか、だった。

梅干しの種の散らかる台所、20年後あなたは?(まさに)の取材、お母さんの入院生活、教授の旅立ち。

テレビの前でう~む&じ~んつってみていたときもよかったが、20年後「何者にもなってはいないけれど、とりあえず望むところに出かけられる身」を維持し、当時は同じ空の下「すいか」をみていた知らないみなさんと、2023年同じ屋根の下!「すいかだいすき!!」を共有できるなんて。

ドラマは「はい、ここ感動!」の押しつけを一切しないものだったけれど、実行委員のかたの講義後のインスタライブによれば「泣きそうになった」とあまりに多くのひとがアンケートにかいていたという、この会。

私も端的に「泣きそうになった」。ふつうに生きる難しさが、20年後のみえなさが、倍々にのしかかる2023年。それでも私たちは「すいか」を好きで、不安も不器用さもさみしさもちっぽけさも抱えながら、自分の責任(それは「自己責任」とは完全に異なる)で「どっちか」を選んで生きたいと思っている。自分の人生なんだから。

映画の強さもひとの弱さも

一歩間違えれば死ぬ暑さだったさきの3連休、みなさまにおかれましてはいかがおすごしでしたでしょうか。

私はといえば、ウィンドウにうつる己の冴えなさにぞっとし「まずは姿勢(できることから)!」と強く決意するもあえなく塵。熱波に抗えず、猫背で表情筋の死んだホリデーに。

始まりがまず悪かった。

自分も「概念として」なら生きるとか死ぬとかについてそこそこ考えるけれど、事情も人柄もしらない誰かのつらい選択にそんな一家言ごちたいか、多くの人間よ。という薄暗い気持ちがどうにもひかず。

好き嫌いださいかわいいみたいなことをふとつぶやいちゃう気分はある程度わかっても、断罪、差別、誹謗中傷については。狂ったように投げつける情熱について加害側へうっすら思いをはせてはめちゃくちゃ沈んでしまう。

そもそも自分を脅かすものから1㎜でも遠く距離をおきたい私は、他人に平気で暴力をふるう人物は風向きが変われば速攻こっち、が目にみえるため要注意マークを忘れない。

という生来の感覚にあわせての、女性、貧乏、非正規。明らかな弱者チーム構成員ゆえひどい目には充分遭っており、たとえば外国籍とか性自認を理由に人権を脅かされるとか生命維持への不安を抱えているひとがまともに扱われない状態に、不愉快なだけでなく、わがことのように傷つく。

少し考えれば、ごく一部の偶然に偶然が重なってたまたま恵まれている人間以外「差別」は「敵」のはず。なのに、いきなりそっちの視線で元気よく絶え間なく弱いひとを叩ける「一般人」のメンタリティってなんなんだろう。根拠もだけど、その量にひたすらげんなりしてしまう。あのときも、あのときも。いまも。

で、とどめの酷暑よ。

果てそうになりながら、もともとない力をふりしぼり、灼熱の土曜日(いちおう連休一気温の低い予報が出ていたから…)意を決して! イメージフォーラムまでカサヴェテスの特集上映をみにいったわけだ。

「ラブ・ストリームス」

周知のごとく、カサヴェテスの映画はすばらしい。が、特異な威力で体内に重い液体を残しがち。みるにはそれなりの覚悟が必要である。

「こわれゆく女」でいつか帰り道足元がおぼつかなくなったため、暑さも考慮して今回はこれか「フェイシズ」を…(どちらも初見時「こわれゆく女」ほどはくらわなかった)くらいの気持ちで挑んだところ。

ま~よかったですよ。よかったんだ、これが。暗さ重さに構えすぎていたせいか、想定をこえて素直に静かにしみわたった。不思議なあたたかみとユーモアがあれこれを制し後味もなんだか。

(ペットが近くにいれば冷えた心も癒されるのではというおねえちゃんのおせっかい、意外に効くし。異国に越して恋人を作り創造的な仕事でもすれば心の病なんて一発っしょ、てえカウンセラーのひどさはアレだけども。「クリエイティブ」の雑さと暴力…)

登場する誰もが残らず幸福への道を歩んじゃいないけど、不幸とは違う。いや、自身の考える「不幸のかたち」が若いころと変わったのかもしれない。30年やらたてば。

「愛」も「美しさ」も「パートナーシップ」も、「孤独」に至ってはなにがどうしたって皆「孤独」なのだから(自覚していようがいまいが)自前、勝ちも負けも未来も過去もない。

前後に90年代カサヴェテスを続けてみたころのあれこれも思い出して、複合的に味わえた。

優れた(後世に名を残し、次世代をノックアウトする)監督の作品は、総じてあきれるくらい「誰にも似ていない」(=ほんとうの意味でのフォロワーはいない)。

カサヴェテスもジーナ・ローランズも、とにかく類をみないレベルに「顔がいい」しね。最初からやられたもの。若者たちが、こぞって華奢で整った顔をしておしゃれの似合う俳優を欲したあのころにおいても。

なにしろ、強い。強いものは強く深く美しい。

シンガポールで餃子

6月のおしゃべり会「も」ロイヤル様で行われた。

話題の英国フェアはまだ始まっておらずシンガポール上空を飛行していたが、やだおいしそう…。乗っかって注文すると、さすがのロイヤルクオリティ、突然かの地に着陸。30度超の真夏日、服装がアジアン、みたいなこともあいまって気分爆上がりだった。

10年ほど前か、買い物は毎月DEPT!(エリちゃんのご両親が営んでおられた時代の原宿&代官山にも通ったもんだが) むしろ買いすぎ! セレクトと欲しいものが完全合致、店員さんとの相性もばっちり、なにしろ徒歩圏! の100点満点期、出会ったワンピースへの愛しさが増したしだい。

衣服は不思議なもので、買って後悔までしなくとも(そのもののかわいさによって)ほとんど着ないで終わったり、逆になんとなく手に取っただけなのにめちゃくちゃ愛用する未来が待つことも。

さておき。この日のトピックはなんといっても「おかず究極ベスト5発表」と「松本絵日記拝見」だった。

平和。平和よ。「これから死ぬまで5種類しかおかずを食べられないとしたら(白米とサラダ、味噌汁は支給)なにを選ぶか」という命題に、ふたりともいの一番で「餃子!」を選ぶ、そーいうところも平和だった。ピース。

餃子はえらい。なにしてもイイんだからあいつ。冷凍でもおいしいし、作ったらもちろんうまい。水餃子も素敵だけど、極めれば焼きかしら。

件の問に対して自分は「餃子」「青椒肉絲」「海宝漬」と3つめまでは迷いなくチョイスするも、残り2つがなかなか。断腸の思いで「生姜焼き」と「五目かた焼きそば(皿うどん)」に決めたのである。

いくらかぶれてみても、クロワッサンやヴィシソワーズだけで残りの人生は満たせない。ポトフやクスクスを2度と食べられないのはつらいが、やはり我はアジアの民なり(感嘆)。

そして「海宝漬」はその名にふさわしく、ヅケ欲と魚卵欲と海鮮欲のすべてをかなえてくれる海の宝、完全食と確信した。もっともっと多くの人に知られ、虜になってもらいたいと切に願う。

で。その後Tさんより今年(2023年)が「すいか(放送)20周年」アニバーサリーだと教えてもらったのだ。ひいい~20年!!

もとこさんも馬場ちゃんも、たかが30すぎで職場の居心地が悪かったんか…的などんより要素もあるけれど、きれいなひとたちのきれいなままぶりに脱帽(出演者全員お変わりなく美しい。ともさかさんもミカコも、今も昔もなにをどうしたらあんな骨格になって衰えしらずでいられるのか)。

乙女の美学校に通いだした時分、生徒さんがもれなく「すいか」を好きで「すいか」ベースの会話をする様子に(自分も愛していたとはいえ)驚きを隠せなかったことも鮮明に思い出した。

「視聴率のふるわないドラマ」を周囲全員がみている平成から連綿と続く謎。というか「現実(リアル)」。

それはいまや政治や政治家、政党、金融政策、雇用からジェンダーやマイノリティの問題へと拡張し、「およそすべての決めごとや権力者の主張に自分(と、親しいひとたち)の意思がまるで沿っていない」現象へと発展。絶望と虚無と孤独と無力感に陥れられ続けているわけだ。

冗談じゃなく連日、ご丁寧に更新・増進されて…(のんきから一転、かなり暗い締めかたになっちまったな)

モンパルナスの

念願の丸眼鏡を買った。

ド近眼しかわからない話で恐縮だが、眼鏡のデザインや流行、丸顔のあなたにはこれ! みたいな語りは、ガチの「近視」には通用しない。

おしゃれを愛しながら、私は眼鏡を装飾品として考えたことがない。いや、かけますよ。みえないんだから。キーボードとディスプレイを同時に認識できないし、靴の紐もブラウスのボタンもスーパーの棚もみえないし、家の鍵も開けられないんだから。

強度の視力矯正眼鏡はひどく疲れるため、驚かれつつも、できる限り裸眼で生活している。何駅か何番ホームか(東急線なら「漢字何文字(ひらがなカタカナまじり具合)」で判断)南口北口、会社のロッカーやATMの暗証番号など、すべて勘。経験値によって。

しらない分野(9割の事象)は眼鏡様様、空港なんてカッコつけてたらあの映画みたいになっちゃうし、壁のメニューをみに眼鏡をかけてよそさまのテーブルの間へ分け入り、フロアガイドの場所を探すためおもむろに着用などなど(本やスマホは年齢もびっくりの近距離で裸眼にて「可読」)。手間、ださい、つらい毎日である。

好みやファッションで関われない、それが私にとっての眼鏡だ。ゴロンゴロンいう厚さのレンズがフレームから出ない、軽いもの(レンズだけで重いから)で「日常装着に耐えうるデザイン」を苦労して探すも、かけた瞬間目がとびきり小さく、顔の輪郭がゆがみ内側に入る現実に絶望する(究極の圧縮をかけてもレンズの向こう側ははっきり縮小。虫眼鏡の逆ね)。そのくりかえし。

目を大きくみせる各種メイクスキルが日々刷新され、カラコン導入すら中学生に常識の世界で、何万円も払ってわざわざ小さくみせる機械を…。

無。無である。差し歯、ペースメーカー、人工透析などと同じく「生きるのに不可欠。感謝はしているがそれ以上望むべくもない」医療措置としてつきあってきた。来世は0.4程度の視力をキープし、死ぬまであれなしで暮らしたいよ。

そんな私の著しい誤認が、20年ほど前どこかの眼鏡屋でいわれた「レンズの厚いひとはフレームの上下幅が短いものを選ぶと悪影響が少ない」だった。信じ切り、ググることもせず1mmでも狭いものを選んだ。縦幅が狭いとバランスをとっていわゆるスクエアタイプになる。横長の眼鏡ばかりかけてきたのだ。

それが大間違い! 横幅があるほうが顔の輪郭がゆがんだり目が小さくみえるのに激しく加担すると先月しったのだ。つい先日よ。どんな手を講じても裸眼より目が小さくなるのは止められないが、少しでも錯覚やトリックを利用したかった私は「だまされた!」「自分のバカ!」とのたうちまわらんばかり。

イキって伊達メガネをかけた中学生のころからラウンドタイプを好んでいたのに、なんてこと…(バカっぽくて似合ったから。たいがいクールよりヌケてるほうが合うのよね。美やエレガンスよりユーモアやチャーミングに寄せる系)

いてもたってもいられず、「それでも目は小さくみえますよ」と忠告されながら、現時点で最高に薄くなる圧縮加工を施し(大課金)メーカー随一の小ぶりのラウンド眼鏡を購入。高かった…。でも。

好きなかたちの眼鏡をかけられる、だけでずいぶん気が晴れた。はっきり「コンタクトレンズのうえから試着したとき」より(裸眼だと眼鏡が似合ってんのかもわからんのよね「みえないから」)目は小さく、レンズの厚みで横顔に段差もつくけれど、前より断然マシ!!

今日がいちばん若い日。みたいな考えかたでいけば、気づけて本気でよかった。これからは丸眼鏡で、大橋歩さんみたいな、岡本敬子さんみたいな、明るいおしゃれを楽しむ加齢人生を歩むぞ。

丸眼鏡で初出社した日、女性編集者に「フジタみたい! 画家の。かわいい~」といわれた。フジタがかわいいかは異論もあろうが、自分は「大江健三郎…」と予測していたので(大江健三郎、大槻ケンジ、小沢健二、イニシャルKOの文豪たち♡ 大江のケンちゃんもぜんぜん悪くない)格上された気分すら。うれしい。

日常から嫌な要素を少量でも減らす。これが微力で弱気な中年一般女性の進む道(戦い)である。

パーパス!

松本へいってきた。

『水車小屋のネネ』で蕎麦欲がはねたのだ。理佐と律のたどりつく、水車で挽いた蕎麦粉でつくるおいしい蕎麦屋。小説だからもちろんその地はフィクションで、イメージとしては「安曇野」が近いのだろうけれども、あそこは車がないと難しいし、水車を備えた蕎麦屋となればさらに。

松本だな。松本しかない(水車はなくても川が流れ、山があり、うまい蕎麦が待っている)。

5月なら季節もいいはず。最終日曜日の夜一泊。宿は以前も感じのよかった花月にした。

中旬より一段階ディスカウント設定だったのは梅雨が近いせいかと考えたが(実際月曜日は雨模様)実は年に一度のクラフトフェアが行われる週末で、市内は激しいにぎわい。なんなら蕎麦を食べ損ねるほど…!(恨みはそこ)イベントを知らず興味もないのに当てていく俺クオリティよ。

さておき。

傑作にふれたTさんも「蕎麦! 山! 水! 松本!」と声をあげてくれ、行きかえりは自由なスタイルで合流しようと。15時、まるもでね。OK~。

新宿8時発のあずさは10時40分に松本到着、前回ふられた「野麦」をめがけ一直線。お店は11時半オープンというのに、11時前到着で8人目。戦い…。10席ほど、お昼のみ、ざる一択のいさぎよさ&さすがのおいしさ。相席の女性と「おいしいですね!」「おいしいです!」と笑顔でいいあい、上機嫌でホテルを目指す。

荷物を預けて、バスで民芸館へ。ここは好事家にはマスト、ふつうのひとにもおすすめスポットだ。展示物がなにしろひとつひとつ魅力的で、窓に広がるのどかな風景に目と心を癒される。茶色い部屋はいいな。うちの床ももっとこげ茶にしたかった…でもこの額縁だから活きるってのも…

などと考えながらゆっくりひとまわりし、バスで街に戻ってもまだまだ時間が。まるもに早めに入ってぼ~っとするか。それもまた贅沢な旅のすごしかた。

なんつってドアを開けたら、あいにくの満席で「お相手がいらしてから一緒に入店ください」。しかたない。ホテル併設の喫茶店(素敵)にいき、ネルドリップブレンドコーヒーゼリーを食し(床より先に体が茶色くなりそうなコーヒー摂取ライフ)まるものドアを再びたたく。

Tさんは7時のあずさで到着し、クラフトフェアも民芸館も堪能したとのこと。彼女くらい手芸に秀でていればフェアも楽しかろう。

お茶のち、ちきりやに赴いて歓声とともにお互い器を買う。丁寧な暮らしもせず、民芸通でもない私だけれど、このお店には毎回テンションがあがる(連日通っちゃったりね)。本気と根性を感じるのよ。以前いらしたおばあちゃんの姿が確認できず残念だったけれど、しびれる包装紙もかっこいい紙袋も健在だった(いまどき無料! 泣かせる)。

全体に、コロナ禍を経てもほとんどのお店が残り、ひとが優しく親切で会話を厭わない、松本はとても気持ちよい都市だと思う。これでネネに「ま、ま、まきちゃん、きたね!!」とかいわれたら最高なんだけどな~(混濁)

寝言はともかく、皿をかかえて花月にチェックイン(旧館ツイン。かわいいお部屋でした)Tさんは駅へ荷物をピックアップにいき、私は部屋でぼんやりし、夕飯のため「こばやし」(いわずもがな蕎麦屋)で集合するが、なんと! 蕎麦SOLD OUT!

短い滞在時間、数少ない食事、蕎麦しか食べたくない!!(めっちゃ蕎麦蕎麦いってんな)18時以降ほとんどの店が閉まる大通りをさまようふたり。

あ、あそこに、ひとの並ぶ蕎麦屋が!(=営業中)よし! 名前をかき、多少待って入店。メニューをみたら「きのこそば」があるではないか。守の!(違うけど)りっちゃんが愛した!(違うけど)松本の夜、絶望の先でいただいた「きのこそば」は、ネネが番をし石臼で挽いた蕎麦粉じゃなくても充分おいしく、温かいおつゆがしみた。

成し遂げた気持ちでホテルへ向かい、お風呂に入ってお菓子とお茶(すべてTさんの持ち込み。いつもながらごちそうさまです!)をおともに長い長い夜をおしゃべりに費やす。

部屋着&洗い髪のまま、甘いものを半分こして「忘れなさ」や「虚無」について思うさま語り合う。尊い。得難い友人に出会えた乙美に…(何万回目よ?? 以下略)

翌朝は、ホテルの喫茶店で愛らしくも豪華なモーニングセットをいただき、Tさんはお城へ出かけ、私はチェックアウトぎりぎりまで部屋で憩って、蕎麦屋でランデヴー。お昼は「源智のそば」。

以前きたときも思ったけれど、ここ、おいしいのヨ~(というかまずい蕎麦屋は松本にない)。そこはかとなくオシャレでカフェっぽく、岩松了似のおじさんがもうひとりのおじさんと仲良く経営しているのもほほえましい。

私は早めのあずさに乗る算段、出発まで駅近くの珈琲美学アベにいくTさんと甘味をご一緒させてもらう。初めて入だったけど、アベいい、いいネ! また来ようぞ…。

ひとしゃべりのあと松本駅でお別れし、のぼりのあずさのひとになった私。うつらうつらしすぎて、何度も窓に頭をぶつける出張帰りのサラリーマンプレイを披露しまくったけれども。

松本は変わらずいい。『水車小屋のネネ』もめちゃくちゃいい。両者に関係はないかもしれないけど、蕎麦なんてそもそもいいに決まっている。要するに、まるっといい小旅行だった! クレバー!

新しいひとたちのこと

仕事が忙しい。というのがGW明けの感想で、絶賛継続中なのだけれども、第19期ブッククラブの打ち上げ話をしたい。

2か月前に予約をいれた美容院(担当さんがちょう売れっ子なんで)の夜に、件の会合が数日前滑り込んできたかたち。私は疲れやすく本来そういう予定の組み方はしないのだが、どちらも捨てられず参加。くわえてスーパー近視用眼鏡を作り直すうまくいかなさ、デザインの選べなさ、検査の面倒さ、出来の悪さ、などが重なり、その日はヨボヨボのヨレヨレ。で、遅刻。

メンバーに若者が多いのはしっていたけれど、あらためて「来月26歳です」「僕は27になります」みたいな「私語」のまばゆさにくらくらした。昼間、美容師さんが「若い子ってただただかわいくてうれしくなっちゃうんですよね」「そう! 新卒の子の近くに座ると(フリーアドレスなので時の運)なかから発光してる。キモいだろうしハラスメントだから本人にはいわないけど、同世代と離れた場所で<かわいい。肌ぴかぴか~><毛穴がない! ってああいうことなのね><全体に弾力が…><すばらしい>ってこっそり盛り上がったり。若さは力!」「もらえますよね~」などなど話したばかりでもあったが、ツルピカだけでなくブッククラブの若者は「新しいひと」なのだ。「(うちらと)つながってない」みたいな。生んでない者が恐縮ですけど「子ども世代」とかいう感覚とは違う。

たとえば中年の私は、現政権のおじいちゃんたちのいうことなすこと「仕事(代議政治自体)をわかっとらん。辞めろ。世間も現実も人々の望みもみえていない(あるいは「みない」)。わざわざおぞましい世に変え、市民をなめ、少子化や若者のあれこれ離れを後押しする国賊…」つって「すぎた時代の、利権にすがる亡霊たち」とさめた目を通り越し憎んでみているわけだけれど、若者はやつらからあらゆる意味で遠い(と思わされている)せいか「違う世界」を生きているもよう。主権者としては微妙だが、政治に怒りや希望や期待を「ほぼ持ってない」。

やさしく賢くバランスがとれていてフラット。差別意識が少なく、他人を蔑ろにしない。性別や年齢で態度を変えない(=同世代の同性にも敬意と距離を保っている)(俺が黒といったら黒だ! みたいなおっさんに爪の垢を…)。

あまりの差に老害化をおそれ、当初「なるべくおとなしくしよう。私のいうことなんて興味なかろうし」と心していたのも危惧にすぎなかった。誰をも等しく「1」とカウントしていて、中年でも20代女子でも同意も反論も同じ温度で受け止める。ありがたみ…(日頃の雑な扱いがしのばれる)。

当夜、新しいひとたちは「個性豊かな面々で、みなさん尊敬していますし毎回感動がありました」「出会ったかたたちを、失礼かもしれませんが全員<友だち>と思い続けます」など心くすぐるワードを連発、オールド組男性の「なんかね、若いひとから学ぶことが多くて驚いた。年取っただけで教える側にいけるわけじゃないんだな。視野が広がりました」にうなづくしかない私だった。

かたや新しくない自分をかえりみれば、残り時間の短さと持っているものの少なさにとりわけ落ち込む。落差がものすごく、憂鬱の発生量も半端ない。

出会いと気づきの実りは大きいが、解像度が上がると自身の能力不足と蓄積の少なさをつきつけられる。きつい。消えてしまいたい思いにしばしば襲われる。戻せない時間の重み。自分でなんとかするしかない問題なのは重々承知しておりますが。

写真は、古参が買わずにいられなかったパスポートサイズの「ドルフィンホテル」ノート。

大型連休まとめ

コロナ禍に区切りをつけ(人間が)数年ぶりにやってきた外出制限なしの大型連休。みなさまいかがおすごしでしたか?

私はおしゃべりづくし。対面トークの効力と情報量に圧倒されておしまい。ご飯食べてくだらない話をするだけで毎日ぐったり日が暮れた。いやめちゃくちゃ楽しかったけども。

 

5/2(火)

就業後、別会社の(勤務先のビルは雇われ元の持ち物で、グループ企業がいくつも入っている。何階のどこで働いてもよいフリーアドレス、同じ部署で面識ないひとも、違う会社だけど立ち話やランチにいく仲になったひともいる。マスク&自由席、他人の名前と顔を覚える機会も意欲もゼロのまま1年たった)女性とご飯。11時まで飲み食いするなんていつぶりか。

人生のピークについて、猫のすばらしさ、老親の世話、健康トーク、職場の「気になるひと」(ラブではない→も~ラブの話とかようせんわ! 足音のでかいやつはやばい、毎日「ちょっと」遅刻するってなんなん、ひとによってあからさまに態度かえる人間への嫌悪)などなど、彼女とは笑いや怒りの感覚が近いことをいっそう確信した。おまけに明日から連休だ! 浮かれて帰宅する。

彼女は顎が外れるほどかっこいい地区在住なのだけれど、恵まれた環境にぴんときていない様子だった。あのあたりの住所ほしさに築50年17平米の部屋を借りるひとなどを昔の雑誌はけっこう揶揄していたが、いまは個人情報のアレもあるし誘拐も強盗も怖いしな…(ちなみに本人は「前髪を作るかのばすか」で目下悩んでいる)。

 

5/3(水)

メゾンエルメスアッバス・キアロスタミの『桜桃の味』をみたあと、近場旅行の特急&指定券をとる。

映画は、初見同様「非常に疲れた。が、すばらしかった」。貧乏&絶望コンシャスなナウのほうが削られ度が深かったかも。砂ぼこり舞う荒涼とした赤土道を車で走り続ける。『WANDA』(女性貧困ムービーの金字塔)もだけれど、錆びついた大型機械が轟音とともに稼働、ただただ石や土を掘削しては捨てるシーンの連続で観客の目もからっからに乾く。労働者はみな泥と汗にまみれ疲れ切っている。

こんな画像を2時間凝視し、それでも鑑賞後あたたかいものを感じとる。ひとはバカではないと信じたい。

 

5/4(木)

期間労働をした「大企業の経理部」の同期(なにひとつ覚えていない。彼女も半年でやめた)とランチ。去年も初夏に会ったような。お互い年一の顔合わせ、がほどよい間柄なのだと思う。あるある~。

受験がどうとかいってたご子息も中学2年生。母譲り(父もかも)のオタク気質により、前日まんだらけで母子ともども散財したそうで。その行きかえりに! 写真の「リアル」モコゾウフィギュアをガチャで(5種類のうち誰もが「リアル」を当たりと考える造型)一発目にして!ゲット。未開封の状態でプレゼントしてくれたのだ。あけた瞬間の私のアドレナリン放出ときたら!

えらい! でかした! こちらの大喜びぶりに相手は完全に引いていた。小田のチケットと同じく「無邪気」なほうにチャンスの神は微笑むらしい。

 

5/5(金)

Tさんと臨時おしゃべり会開催。ここぞとばかりに昨日のモコゾウフィギュアをみせびらかす。甲斐ある興奮リアクションを得て大満足の私。わかってくれるひとじゃないと~。

お楽しみ企画について練るつもりだったが、通常モードのトークのみで時間切れ。幸せなおしゃべりこそふわっと消えゆくもの。内容はちょっと記憶に…。

あ、平成のいい女代表女優の詳細ヒアリングがあったか。さばさばしたいいひとだそうです。でしょうな。

 

5/6(土)

春樹ブッククラブ19期最終回。

涙涙の…はまったくなく、参加者などさすがのGWでたった3名(+飛び入り1名)。このドライさがメンバーらしいとも。

課題本は『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』。インタビュアーの亡き島森路子さんへの憧れと敬愛を切々と語り、若人をつい置いてけぼりにしてしまう私だったが、前期と同じくしみじみ楽しかったわ~とふりかえる。

マウントをとるひとに出会わないのだ。そんなやさしい世界が2023年に存在するなんて。村上氏まわりへの知識や読み込みの深さはもちろん、職業、年齢、性別、属性で優劣を設けられないひとの囲まれ、自由に話ができる。好きなものを嫌いなひとがいても無駄に戦わなくていい。

途中で「もう充分かな」と思ったけれど、またふと参加してしまいそうな予感…。ともあれ。メンバーのかたがた、書店主、お世話になりました!

 

5/7(日)

一週間前倒しの母の日祝い。叙々苑の焼肉ランチをごちそうした。主役のリクエストである。

食欲旺盛でなにより。といいたいが、年末骨折して手術&入院、その後すっかり杖生活突入。老人に「元気」まで願うのは酷だ。おいしいおいしいつって、小鉢残しつつ(肉を食べきるために)平らげ、喜んでくれたのだから成功と考えよう。

この日は途中ものすごい土砂降りになったが、めげずにおしゃれパン屋で夜と翌日用のパンをゲットし、タクシーで帰った。肉が高いのはしかたないけれど、パンの値段は「冷静に考えないようにせねば」の域。いつからこんなことに…。

 

休暇中は本もいくつか読み、きわめてふつうの感想で恐縮だが、西加奈子さんのものが強く心に残った。とあわせて、品田遊氏の『キリンに雷が落ちてどうする』を予想以上に楽しんだ。

品田氏の文章は最近のものでコロナ禍も描かれ、思考や文体が古いなんてまったくないのだけれど、なぜかとてもなつかしい。ちょっと前はこのようなことを(もっとまとまりなく、はるかレベルの低い断片ではあっても)誰に頼まれなくてもしょっちゅう考えたりメモしていた気がするのにな。

私に限らず、こっち側のひとびとはいったいどこにいってしまったのか。な~んて問いかけちゃってるが、自分も立派に「もうそこにはいない」わけで。切ない。