よくみえるってどういうこと?

あいかわらず誰の役にもたたないだろう日記

スワローズ ふたたび

去年の在学中(?)よりいつかまたブッククラブには参加したいと思い、無駄にタメる必要ないじゃんと1シーズン(約半年)あけて19期生になった。すでに数回行っている。

今期の特徴は(あくまでマイ前回参加時比だが)「人数が増え」「ますます若者の割合高く」「外国籍のひともいる」。構成員が変わると雰囲気ごと変わり、あらためておもしろい。

イエーイみたいな意味ではない。読書感想を述べあう(と、どこかで必ず個人の「記憶」にふれる)ことで、ひとの人生を垣間みられ、自分だけの狭い世界から少しはみ出られるからだ。誰かと話したい。自分の言葉を誰かにきいてもらいたい。ずっとじゃなくていい。といった欲を満たされるからだ。

学び・気づきとしては「自分の発言は常に弱い(声が小さい)」だろうか。個人の受け止めかたに頼る(逃げられる)ものばかり。知識の羅列や他人を恣意的に動かす言葉を発したくない思いと、シンプルな「弱腰」。それに半分ずつ支えられた結果と分析する。

村上作品への愛情もしかりで、必要に応じて生じた読み返しにより「ファンとかいってきたけど、完璧に支持できる小説って実はないのかも…」なる疑惑が浮上する半面、忘れかけていた短編にも好きな箇所がでてくるなど、±両面の発見が。

いずれにせよ、彼の小説なしに私は若いころをすごしたくなかったし、読まずに生きてこなかったことを幸いに思う。

ある一文、ワンシーン、比喩、で、一粒300メートル。映画の好み(刻まれかた)と同じだ。私は、回収や人物の描きこみや全体のバランスへの期待度というか点数配分が低く(バカなのかもしれないけど)多少矛盾していようが、時間の流れが不自然だろうが、伏線なんてなんならなくても、強烈に好みの部分があればOKらしい。

入れ替わりはあっても、総じて『ダンスダンスダンス』を春樹の生涯ベストとしてきたけれど、あれだって最後の最後のシーン忘れてるしね。何度読んだかしれないのにね。だからまあ、オチじゃないんだ、あいつへの偏愛の所以は。

さて、今日は直近の課題図書『風の歌を聴け』で、書店主案により「これまで得たもの/失ったもの」を発表しあった折に爆発的な「よさ」を感じたメンバーの回答を残したい。

台湾出身の若い女性(彼女は中国語版と日本語版を両方読了。中国語版は「あまりおもしろくなかった」とのこと。ふふふ)の「得たもの→二重(の目)」「失ったもの→腎臓(の一部)」。そうくるか & そうよね~。

生きるとは、まさに体の一部を失い傷つけ機能を駆使し退化させ、足したり修繕したりしつつも、ついには停止に至る流れだもの。

語彙が増え、優れた表現力を会得し始めると、逆に隠れてしまうものも出てくるってえアレを感じた。ユリイカ

その視座限定で、あなたはなにを失って、なにを得ましたか。と個々人にきいてみたくなったほど。

というのも、私は自身の体において「年を経ての獲得」に心当たりがないため。失った部位ならば盲腸や親不知などいくつか挙げられるが、二重瞼化や豊胸についてはいまのところ施術しておりませんし…。皺とか…? 筋トレなどもまったくしてないのであれこれ減る一方でしょ〜。

また、「子ども」と答えるかたがいらして、子どもってのはやっぱり最強のカードだなと、この類の問いに関しちゃでたら黙るしかない圧もあわせて無敵…とかは思った。勝ち負けじゃないのは自分・回答者含め「ほとんどのひと」がわかっていることだとしても。

要は、同じお題でも展開しだいでこんなふうに思いもよらない考えがうまれる…新規ってフレッシュよね〜という話である。

毎回どこかしらで「自力でつかみにいかないと、なにも出会えないな」と痛感するのも非常に効いている気がする。

(写真は、気に入って毎週とっているヤクルト1000のおねえさんからもらったもの。ブッククラブで使おうかしらん…ともくろんでいたが、そういうムードではないため未使用)