2月末から3月頭にかけては新刊目白押しで(決算などの関係かしら)うれしい悲鳴だった。
もろもろ鑑みれば川上未映子の『黄色い家』について書き残したいところなのだけれど、とりあえず新しくもなんともない『旅する練習』の感想を記す私をゆるしてほしい(いちいち乞わなくても)。
愛聴するNHKラジオ「飛ぶ教室」でも幾度かそのタイトルが出て(記憶にない…われながら怖い)、京都の友人も絶賛、「まきさんがどう感じたかしりたいです」といわしめた本著。読まずにおられようか。
浅学ゆえ著者名も初耳、10ページほど進めて「保坂和志系統?」と思った。保坂氏は好きだし、「緊急事態宣言発令の少し前」という設定に、わけのわからない疫病の存在がしれわたり恐れられ、ひとがみな家にこもり、消毒に次ぐ消毒、マスクやトイレットペーパーの争奪、他人との間をとにかくあけろ、繁華街に出るなど論外、の「空気」だけがふくらんで爆発しそうだったころをなつかしく感じる(人間はつくづく忘れやすく慣れる生き物だ)。
サッカーが大好きで上手な小学生の亜美(サッカーをやるため中学受験をし合格済)と、その叔父(母の弟)で作家の「私」がバディーとなり、県をまたいだ外出や公共の乗り物への強い抵抗を覚える時世下、利根川沿いに鹿島まで歩いて向かう旅小説である。
叔父(私)は、目にとまるもの、通りすぎる土地の歴史、鳥や姪の様子を文章でスケッチする。亜美は、「ドリブル」をつないで目的地までたどり着こうとする。
「みずみずしい」という形容詞はしばしばうすらさむく響くけれど、それしか当てはまらない道ゆきで、二人は大学4年生のみどりさんに出会う。
みどりさんもまた鹿島を目指していたのだった。ジーコを尊敬しているからである。アントラーズのファンでも、サッカーを特別好きでもなく、放映でたまたまみた「ジーコのふるまいに心打たれ」、社会人になる前にカシマスタジアムへいきたいと思い、「強烈にやりたいことがあって、明らかに優れた」おとなと子どもに巡り合う。
受け身でおとなしく淡々と生きてきたという、みどりさんの周囲にそれまで存在しなかった、きらきら輝く、気の合う年の離れた友人。彼女の、二人を思う心模様の推移が自分にはわかりすぎて痛かった。
「私はいつだって応援する側だと気づいてしまった。才能があり、やりたいことに向けてきちんと努力する二人をとても尊敬するし、願いをかなえてほしいと思うけれど、一緒にいるとつらくなる」
私もだ。まぶしいひとをみると心から素敵だなあと思うし、出会いに感謝するし、成功を祈るし、手伝えるならと考えるけれど、比較以前に「私にはなにがあるのか(ない)」と次の瞬間落ち込んでしまう。自分の空っぽさをつきつけられうんざりしてしまう。
「そんなこと!」と小学生の亜美にいわれ「そうだね、よ~し!」なんつって簡単に切り替えられないみどりさんに、本を飛び越えて抱きつきたかった。
彼女のやるせなさは自分のそれだし、彼女の「選択」にすうっと深呼吸できたのも自分だった。
そのあとの。物語の終わりかたが、もう、もう。
みどりさんのゆくえも描かれず、旅を終えて、コロナの感染拡大がどうなったか、亜美の中学生活は、ドリブル500回突破はかなえたか、戻った彼女がおかーさんとどんな話をして、オムライスを一日一食以上食べられるようになれたかなど、一切わからない。ざくっと切断される。読者はただ、とり残される。
いや、現実だって「こんな終わり」は存在する。誰にも、いつでも、その可能性は潜んでいる。
しっている。しっているけれど、なんでなんでなんでと混乱し、ちょっと放心してしまった。なんという。なんという小説だったろう。
(写真はまったく関係ない通勤路。いま時分の気持ちよさはかなりのもので、ここから入館証をピッとやるまでがパラダイス)